3.11から10年を振り返る – 副理事長 渡邊裕介
2021年03月10日 コラム
■はじめに
私は先天性の障害がある為、普段から車椅子に乗り生活をしています。
その為、2011年3月11日の私の話は、一般の方々とは異なる感覚や、行動、状況があるかと思います。
文章表現が稚拙で説明が仕切れない部分があるかと思いますが予めご了承ください。
■あの日(3.11)の話
2011年当時、江東区で一人暮らしをしており、地震発生からその後の数日や、その後の事を簡単に思い起こして書いています。
私にとっての3.11は別オフィスにいる同僚と電話で話をしていた時でした。
大きな揺れがありました。
「揺れ」が長く、大きく続くので 同僚はびっくりして電話を切り、私も車椅子から降りて机の下に隠れました。
揺れが収まった後、会社の防災担当の方への連絡や、警備室からのアナウンスが暫く鳴り響きました。
防災担当の人から、ビルのエレベータが停まっている事を知りました。
オフィスビルは当時杉並区にあり、ビルは20階程度の建物でした。
私も含めて同じオフィスには何名も車椅子の方が在席しており、
上階に居た方が降りるには、復旧目途が未定のエレベータの復旧を待つか、<イーバックチェア ※1>という器具を使って降りる方法が案内されました。
当日、幸運な事に私は普段いるフロア階のフリーアドレス席(FA席)ではなく、1階のFA席に居たのでビルからはすぐに出れる事が分かりました。
帰宅には自家用車を使っていたので、会社に停めていた車が気がかりになり、駐車場に向かいました。
車は立体駐車場に停まっており、地震の影響で装置が止まると自動車が出庫できず、帰れないかもと思ったからです。
出庫待ちで雑談をよくする、駐車場係りの人に確認した所、装置は動いているので車がすぐに出せる事が分かりました。
ただ余震があるので、もしかすると出せなくなるかもと言われました。
一旦、FA席に戻りニュース映像の津波の映像や、電車が停まっている情報などが時間を追うごと被害の大きさを知りました。
被害が東北を中心に起こっている事を知りました。
ふと、祖母の顔が思い出されました。
母方の実家は福島県南相馬市にあり、祖母は伯父家族と暮らしていました。
母に電話した所、回線が混雑をしていたのでメールで伯父家族の安否を聞きました。
メールの返事は「全く連絡が取れずどうなったか分からない」との事でした。
母も心配をしていた様子でしたが、私自身の無事を伝え、伯父家族の無事が分かったらメールして欲しい旨を伝えました。
会社からも早期帰宅の案内が出されたので、私は駐車場から車を出庫して帰宅する事にしました。
この時に丁度PM5:00でした。
自宅から新宿まではスムーズに車が進むことができました。
その間の道中、沢山の人が都心方面に歩いて向かっていました。
都心に向かうにつれて本当に多くの人が歩いていました。
まだ電車が停まっていたのもあり、「皆大変なんだな」程度に考えていましたが、
市ヶ谷付近で渋滞で、私も自動車が動かなくなりました。
その1時間後も2時間後も全然進みません。
後から知ったのですが、私の通ったルートは災害発生時交通規制の対象となるルートで、大規模な交通規制がかかっていました。
何時間も渋滞にはまっていると、ある時、車の窓ガラスを歩行者の男性にノックされました。
何事かと思うと「タクシーが捕まらないので、お金を払うので自宅の恵比寿まで送って欲しい」という話でした。
私の自宅方向と異なるので、お断りをしたのですが事態の異常性を感じました。
あまりにも運転時間が長いので、途中路地に入って休憩をしました。
ラジオからはネガティブなニュースが大変多く、ユニキャンで知り合った友達の安否が気になりました。
まだスマホが普及する前でしたが、携帯メールやTwitterなどで交流が盛んになった頃だったので、車椅子・視覚障害・聴覚障害・揺れにより精神的なダメージなど、それぞれが困難にあい、立ち向かっている状況が分かりました。
皆が無事である事が分かりホッとしたことや、私自身の状況を皆に励ましてもらい、勇気をもらって渋滞に戻りました。
最終的に家に着いたのはAM5:00でした。
これまでも長距離運転は慣れているつもりでしたが、12時間も運転するとはよもや思いも知りませんでした。
ヘロヘロになって、自宅マンションの駐車場に着きました。
この時の気がかりは「マンションのエレベータが動いているか」「給湯器は車椅子の自分でも復旧できる高さの所にあるか」が気になりました。
部屋は2階にあったので、エレベータが動かないと帰宅できません。
行ってみるとエレベータは問題なく動きました。
部屋に入る前に給湯器を確認しました。
安全装置が働いていましたが、解除できる高さにありました。無事に解除してから部屋に入りました。
荷物の散乱等も無かったので、シャワーだけ浴びて就寝しました。
これが私の3.11でした。
※1
<イーバックチェア>は折り畳み式のソリのような装置で、対象者を座られて階段をすべり降りれる避難器具です。
会社では定期的な防災訓練時に使用しています。
車椅子の方だけではなく、足を負傷したり階段を長時間下れない方も使用できます。
■あの日から少し経って
帰宅前はガソリンに余裕があったのですが12時間運転したので、給油が必要でした。
近くのガソリンスタンドでガソリン売り切れになり、車の給油がしばらくできなくなりました。
自宅に食料品・生活必需品は元々ストックしていたので、生活は暫くは可能でしたが、
買い出しなども含めて、車移動中心の生活だったので「いつまで続くのか?」という不安がありました。
車椅子での一人暮らしも数年続けており、日常では誰の支援も必要とせず、暮らしていけるのに、
何かの前提が崩れると、難しくなってくるのかとも感じた出来事でした。
伯父家族は翌日には連絡がつきましたが、地震・津波・原発被害があり暫く家に戻れない為、小学校の体育館で避難所生活に入る事になりました。
ただし祖母には避難所生活が大変なので、埼玉の私の実家で預かる事になりました。
祖母は半年ほど、実家の私の部屋で寝起きしていました。
気を使うタイプの人だったので、実家に祖母がいる期間は実家を来訪する機会を減らして、泊まらずに帰る事にしていました。
半年で元居た自宅が原発の避難指示エリアから解除され、祖母は伯父の家に戻りました。
祖母は半年間福島に戻りたがっていましたが、帰省後にもらった手紙では「埼玉の暮らしは天国・戻ったら地獄です」と書いてありました。
大切な人が亡くなり、土地や周りの環境が大きく変わり過ぎてしまい、年老いた祖母には変わってしまった地元は地獄のように感じた事に、なんとも言えない寂しさがこみ上げます。
■ユニバーサルイベント協会
3.11以降に企画したユニバーサルイベント協会で行ったイベントで印象深いイベントは以下の2つです。
<深川ユニウォーク>
3.11より以前より準備していた企画で、深川周辺を散策するウォーキングイベントでした。
3月中旬に実施を予定していましたが、地震直後で社会的混乱がまだ収まっていなかったので延期し実行しました。
その間に多くのイベントが中止になり「自粛」という言葉や、「楽しい事が、被災者を思うと不謹慎」とまで言われる程の状況もありました。
ユニバーサルイベント協会としても更なる延期か中止も含めて議論を重ねました。
結果、ユニバーサルイベント協会としてできる事として、<多様性のある方々がイベントを通して交流を図り、社会に貢献する事>こそが、
存在価値であり、その活動こそが多くの人に希望を与える事になると信じて、開催を決定しました。
自粛ムードで、参加者からも辞退が多いのでは?とはいう懸念もありましたが、多くの特性の方に参加を頂きました。
参加者の方がも3.11以降の影響を少なからず受けており、その対応や経験を語り合う場にもなりました。
多くの方の心の傷や、困難を共有できる場としてのイベントは意味のある開催だったと思います。
<東京ゲートブリッジユニウォーク>
2012.03.11に東京ゲートブリッジ周辺でウォーキングイベントを開催しました。
出来たばかりの東京ゲートブリッジを散策しつつ、地震発生時刻の黙祷や、
被災地復興応援の為に参加者で「おらほのラジオ体操」などをしました。
震災が一年経ち、社会的な落ち着きも感じながら、まだまだ被災地だけでなく多くの人が辛い経験をしており、
身体的障害や、環境によってはそのストレスや悩みを共有できる場が限られていると感じる機会でもありました。
■最期に
東日本大震災以降、私も含めた日本の多くの方の価値観や考え方が変化してきたように思えます。
・地震や災害は、身近に感じられるようになった事。
・スマートフォン・SNSが発達し、コミュニケーションや表現の方法が変わってきたこと。
・インフルエンザ以上に厄介なウイルス世界中があり、それが私たちの生活に大きな変化をもたらしていく事。
・いつも会えてた人に、会えなくなる事。
この10年を振り返ると、こんな事があった様に思えます。
大きな出来事が起きるたびに、少しずつ自分の中での価値観や考え方の変化を求められている10年にも思えます。
辛く・厳しい事もこれからも個人・社会の中で起こっていく中、
中心には「人」がいて、「人」を繋ぐのは<想い>なんだと最近では感じるようになりました。
<想い>を繋ぐ方法は色々な方法がありますが、人を繋ぐ為にイベントがあり、それが今後も多く困難に立ち向かう助けになるなら、
多種多様な人々と想いを繋げていけるような、ユニバーサルイベントを今後も企画提供していきたいと思っています。